今日の教訓

今日得た教訓をひとつずつ


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仕事に対する自己検証

さんまの漁獲量が減少していて、台湾に多く獲られていて、さんまの価格は年々上がっているという番組を見ました。
 
その時に日本の漁師さんが語っていたのは「他の国の方法は出鱈目。根こそぎ獲っていってしまう」ということでした。
 
日本では個体数が減りすぎたりしないよう「獲りすぎないルール」をしいて漁業が行われているのですが、その外ではやりたい放題。回遊ルートが日本の200海里内に収まらない魚はそこで大量に捕獲されて、日本ではそのルールがあるから同じようにはできない。
最悪の場合を想定すると、稚魚の段階で根こそぎ奪われて、日本では全く獲れない、ということも考えられます。
 
これって「ゆるやかな自殺」のように思えます。
獲りすぎれば翌年の個体数は減るだろうし、それを毎年繰り返せば絶滅することだってあり得ます。そうなれば、今の生計のたて方では生活ができなくなります。
 
「一時的には儲かるかもしれないけど、その後うまくいかなくなるやり方」は、効率が悪い。うまくいかなくなった後に別の儲かる方法を考えなくてはいけないためです。
そのコストを勘案しても儲かる場合は採用の余地がありますが、破壊して次に行く方法が採用に足る場合はなかなか無いように思います。
さんまの例を考えると、さんまが絶滅するまで取り尽くして潤沢に儲けたとして、考えるのは「さんまのノウハウを活かして別の魚で漁業する」です。
別の魚も絶滅まで乱獲した後、また別の魚を絶滅するまで乱獲……と繰り返すといった構造になり、魚がいなくなるまでやり尽くします。
魚がいなくなったら次は貝、海洋哺乳類、と広がっていきます。最終形は「自分達の資源となるものを全て奪い尽くす」ところまでいくと思います。
そうなると次は、用意された資源が無いわけですから、自分達で用意したり別の方法を考える必要があります。
 
これって自然保護を訴える方々が話す内容と似ています。「資源は有限なのだから、できるだけ長く、可能であれば無限に利用できるように」。そこに感情的な「絶滅は可哀想」とか「人間以外の生物も慈しむべき」といった主張が入ることがありますが、それを除くと資源活用の一点になるように思います。
 
ちなみに私は自然保護はできるならしていった方がいい、というスタンスです。急に原始時代に戻るような生活は無理だろうし、できる範囲でできることをするだけだと思います。
そこまで自然保護に傾倒していない私も、資源についての点には同意ですし、これはかなり利己的な主張だと思います。
 
 
少し話がそれましたので戻りますと、何も考えずに仕事をすると、仕事の成果によりその仕事自体が無くなる可能性があるということでした。
ですので、自分が仕事を通じてどのような影響を与えているのか認識することが大切です。これは大変難しいことだと思います。
 
さんまの例はわかりやすかったのですが、例えばモノを作る仕事は成果が分かりやすいですが、その結果社会がどうなるかというのは予測がたてにくい。また、ゲームを作ったとして、社会にどのような影響があるのでしょうか?ある犯罪を犯した人の趣味がゲームやアニメだったとして、そこにどれほどの因果関係があるのでしょうか?
 
これに対する私の回答は「祈りと祝福」です。
 
「こういう世界になって欲しい」「これを利用する人に幸あれ」と願うこと。綺麗事であっても、実際にはその願い通りに事が運んでいなくてもそう思うこと。それが仕事をする上で大切なことで、またそれは自分に対する祈りと祝福にきっとなるのだと思っています。
 
 

今日の教訓

仕事には祈りと祝福をもって。
 
 

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