日常系アニメは、それを生きられなかった人たちへの追悼
と書くと、語弊があるし反感も買いそうですが、わかりやすいのでこのままでいきたいと思います。
日常系の、何がおもしろいのかわからないアニメって、何がおもしろいのかわからないけど、見ていて飽きなかったりつい見てしまったりすることや、好きな人っていますよね。私も割りと好きで、見ています。
で、それをなぜおろしろいと思うのか、と考えていたことが発端です。
これだけを考えていても全然答えが出なかったのですが、ある時、内田樹先生の「ひとりでは生きられないのも芸のうち」という本を読んでいて、「死をめぐる二つの考察」の章にこのような一文がありました。
能のこの構成はおそらく喪の儀礼の古代的形態を正しく伝えている。そこには二人の登場人物が出てくる。「痕跡」(症状)を見て、そこでかつて起きたこと(トラウマ的経験)をもう一度物語的に再演することを要請する生者。その要請に応えて、その物語をもう一度生きる「死者」。この物語は「演じるもの」と「見るもの」がそのようなトラウマ的事実があったということに合意署名することで完了する。時間を遡行できない以上、その物語が事実であったかどうかを検証する審級は存在しない。ということは、その物語は事実であっても嘘であっても、コンテンツは「どうでもいい」ということである。手続きだけが重要なのだ。それが「儀礼」ということである。
※「ひとりでは生きられないのも芸のうち」は以下で購入できます。
この「トラウマ」というところを、青春(どんな青春かは各人のご希望に沿って)に悔いがある、と読むと、まさに説明された能と同じ構造が見えてきます。
再演することを要請する生者=我々
その物語をもう一度生きる死者=日常系アニメ
と捉えると、ピタッと当てはまります。
トラウマ的経験をアニメが代行して演じること、そして我々がそれを見ることで「症状の緩解」を行っているという捉え方です。
そうすると、なぜおもしろいと感じるのかという問いに応えられます。
つまり、日常系アニメを見ることでまさに癒されているのです。
アニメを見て「癒されるわー」とつぶやくのは本心だったのだ!とひとりごちたのです。
トラウマ的経験をまるっとそのまま再現していないところに若干の考察の余地はありそうですが、これが私の中で一番納得できる説明です。もしかすると、日常系アニメはいくつかの形に類型できて、それが各人の経験パターンに合致するのかもしれません。
今回思ったこととしては、感じ方を探っていくとそれなりに理由が見つかるということです。特にその根が深いほど人類学的に歴史の古い儀礼であったり、伝承などの根元的な部分に行き当たるのではないでしょうか。なんとなく答えがそこにあるような気がします。
今日の教訓
日常系アニメを見るとこで、我々は文字通り癒されている。
人の感じ方や行動の理由は、人類学的に歴史の古い儀礼であったり、伝承などの根元的な部分に行き当たる。