今日の教訓

今日得た教訓をひとつずつ


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自分にとって恥じぬ行動を

自分の奥底で、こびりついて剥がれない考えや信じていることがあると思います。それは自分にとって意識できないくらい自然なことなので、普段は何の疑いも無しに信じてしまいます。
 
私にとってそれは「神様は見ている」です。
 
よい行いをやれば、その対価としてよいことが起こるし、逆に悪い行いをすれば代償として悪いことが起こるという考えです。
よく考えなくてもそんなことはないし、悪運という言葉があるように悪いことをしていて幸運な人はいると思います。
 
しかし最近気づいたのは、自分の行いを必ず見ている人がいることです。
 
それは自分自身です。
自分は常に自分が何をしているか知っている。これがひとつ「よい行い、悪い行い」のメカニズムなのではないかと考えるようになりました。
 
つまり、うしろめたいことをやっている人はバランスをとるために無意識の内に自分自身を罰していて、そのために悪いことが起こるのではないかという仮説です。これであれば、つじつまは合います。
 
実際に経験ないでしょうか?
あとから考えても説明できないような行動をとったこと。もしくは、冷静に考えればしない行動をしてしまったこと。
これってバランスをとるための対価行動なのではないでしょうか。
 
当初の「神様は見ている」の理論にはもともと問題があって、それは「こんなによい行いをしている私が報われないなんて、世の中が間違っている」という方向に向かう可能性があることです。それは向けようのない怒りとなって自分や社会へ害悪を及ぼすように思います。
一方で、だれかが報いてくれるのではなく、自分が納得して生きていくためのものだという考えはそのような怒りにはつながらず、その少なくてもその観点で有益なように思います。
 
 
つまり、すべては自分が納得して自己満足して生きるためなのではないか、ということです。自己満足というとあまりよいイメージはないですが、自己の捉え方なのかと思います。
 
長期的に、全体的に見ることで自己満足は全然アリなように思います。
 
例えば、サッカーチームに所属していてポジションを争うライバルがいたとします。あなたはどうしてもそのポジションが欲しいため、ライバルを蹴落とそうと練習中に怪我をさせます。そうしてポジションを獲得したあなたはとても満足しました。
短期的な視点では、このように満足ですが長期的な視点ではどうでしょうか。
 
後に、あなたのチームは怪我人が続出しどこのチームにも勝てなくなり存続の危機になるかもしれません。そこまでにはならなくても、ライバルと切磋琢磨することでより高い能力を得ることができたかもしれません。少なくともライバルが戦線離脱したことでチーム全体の能力は下がっています。
 
 
このように自己をより広く捉えると、短期的には他人のためになるようなことも自己のためになります。そんな欲張りな自己満足、悔いのない生き方が大切だと感じるようになりました。
 
これは余談ですが、地獄というシステムもこの考えに則しているような気がします。
懺悔をすることによってその罪については心に残らないようにする、やひきずるような考え方は捨てて悟りを開く、といったシステムはすべて悔いのない生き方につながっているように思います。
 

今日の教訓

日頃の行いを神様が見ているし、何より自分が見ている。そのため、自分にとって恥じない行動を心がけることが大切

二世帯同居の難しさ

やはり、二世帯同居はできる人とできない人がいると思う。
 
ほとんどの場合、人間関係の問題なのだからコミュニケーションが原因になる。うちの場合も同じようにコミュニケーションが問題だった。
 
 
長年二世帯で暮らしていたのを解消しました。
私の両親のところへ妻が入る形でした。
 
一番の原因は、私の親の
「やらなくてよい、やって欲しくないと伝えたことをやってしまう」
というどうしようもないことだった。
 
私の親のスタンスは「言わなくても気を使ってやれ」私たちのスタンスは「やって欲しいことは言わなきゃわからないし、やって欲しくないことは伝える」というもので、どうしてもすれ違ってしまっていた。
相手はよかれと思ってやっていると思うのだが、こちらはやめて欲しいと思っているから、これはわかりあえない。
 
そうして、決定的なことが起こってしまった。
 
妻が妊娠して、つわりがひどくて家で寝込んでいる時にしつこくつきまとってしまったのだ。妻と私の親との関係はまぁ普通で、義理の家族とはいえそんなに打ち解けていない状況だった。
つわりがひどいため寝ているのだが、あれこれと声をかけてしまう。ほっといて欲しいと伝えても、洗濯物を勝手に畳んだり、冷蔵庫に食べ物が放り込まれていたりする。心配だからというのはわかるのだが、それで妻の心労も増えてしまった。
 
そんなことが続けば、うまくいかないのも無理はなかった。
 
 
・・・今思えば、私の親は昔からそうだった。
 
多感な時期に、来て欲しくないと伝えた文化祭には顔を出し、いらないと伝えた食事やお土産は決まって用意されるのであった。
 
すごくいい親なのかもしれないが、なぜ「しないで欲しい」と伝えた気持ちを汲み取ってくれないのだろうか。なぜ黙って実行する前に実行することを言ってくれないのだろうか。
今の私が想像できることは「自己満足」だ。何かしてあげたいので、という気持ちだ。
気持ちはわからないでもないが、何もせず見守るということも十分してくれていることなので、そういう選択がなぜできなかったのだろうか。
 
結局はエゴなのだと思う。
私の家系では初孫にあたる子だったので、舞い上がっていたのだろう、いろいろと相手に配慮が欠けることを行ってしまったのだろう。
 
人の気持ちに反して何かをするということは、嫌われる覚悟ですべきと思う。だから、我々の場合は同居解消となってしまいましたが、それも仕方がないと思う。子供が産まれて、同居していたら毎日顔が見れたのにと恨み言を言われたが、それも自業自得と思う。(近くに住んでいるので、週に一度程度は顔を出すしね)
 
 
で実際離れてみて、これくらいの距離がちょうどいいかなと感じている。完全に仲違いというわけではなく、妻も実家に顔を出すし、子供も会わせているので、まぁ普通なんだと思う。
 
いったんこじれた関係を修復するのは難しいが、修復までいかないまでも現状維持費したり漸進することはできるのだと、信じています。私自身がこれまで両親と特別仲がよかったわけではないので、少しくらい距離がある方がかえって自然に感じています。
 
 

今日の教訓

人の気持ちに反して何かをするということは、嫌われる覚悟ですべき(ということで、この話はまとまると思う)

アプリの今後、または人類の未来について

アプリの企画、開発を行ってきて思うことがあります。
 
アプリというものが登場して5年以上経ちますが、単体のアプリとしてはいろいろ出尽くして勢いが無くなってきた、と感じています。もちろん「無し」ではないのですがアプリそれだけで楽しむものは減ってきていると思います。広辞苑アプリが8500円で結構売れていた時とは変わってきています。
 
代わりに、画面に収まらない楽しみ方が増えてきていて、今後はこれが主流になると予想しています。
 
ざっと挙げると
 
AR
VR
位置情報
ビーコン
○○連動型
 
とあります。
これらは、まさにモバイルという持ち運べる画面サイズならではの進化の方向です。
 
ざっと以下に各説明をあげますが、ご存じであれば読み飛ばしていただければと思います。
 
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AR(Argumented Reality)は、画面を通してみると現実に画面上のものが「重ね合わせて」見えるものです。「電脳コイル」というアニメが一時流行りましたが、あの世界観です。重ね合わせるというのがミソで、つまりその画面を見ないと他の人には見えないということで、一人でにやにやしてしまうなんてこともありえます。
 
VR(Virtual Reality)は、ARと似ていますが現実世界との重ね合わせでなく完全に仮想の世界を作って、それを全視界で見ることができるものです。そのためヘッドセットを用いるものが多いですが、アプリの観点では目の前にスマホを固定できるゴーグルを利用したりします。その世界に入り込むことができるため没入感がとても高い体験ができます。木の板の上を歩いているだけだけど、本人が見ているものは高層ビルの間に渡された鉄骨にいるといったこともできます。有名なのはOculus rift(オキュラスリフト)です。
 
位置情報は、自分がどこにいるか、どちらを向いているかで体験が変わるものです。一番分かりやすいのは地図です。また、他の技術と合わせて利用されることが多いです。最近ではポケモンGoが話題ですが、あれもポケモンが出現する場所に行くとゲットできたり、ポケストップというチェックポイントに行く位置情報ゲームです。
 
ビーコンは、位置情報をさらに細かくしたイメージです。店内でのみポイントを取得できるサービスや、スタンプラリー型のビーコンがある場所を巡っていくような、場所を限定したサービスを行うことが特徴です。iBeaconが少し前に登場して話題になりましたが、そのデモイメージでは商品の前に行くとその商品情報や割引情報が表示されるというものでした。
 
○○連動型は、スマホを操作することで現実世界のものが変わるというものです。auの企画で、スマホを操作してプロジェクションマッピングされた映像の色が変わるというものが過去にありました。テレビのリモコンを押して番組の内容に参加するというものがありますが、それをスマホで行うようなイメージです。スマートホームという考え方もあり、これはスマホが家電のリモコンになります。
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これらがアプリの次なのではないかと思います。簡単にいうと現実世界とより関係するということです。
 
現実世界により関係するアプリ(もしくはそれが発展した何か)が増えてきたとして、そこで課題となるのは「どう使わせるのか」です。その回答としては、私が思う表現としては「アプリが身体感覚を帯びる」ということになります。
 
この言葉はWierdの記事にもなっていました。
※ここで使われている意味とは少し異なります
 
 
もう少し説明を加えてみます。
このようなテクノロジーの発展は、人間の進化につながっていくと考えます。進化というと、四足歩行から二足歩行になったり指が6本になったりと今持っている身体の変化を思いがちですが、そればかりではありません。
火を使うようになって進化したこともあれば、貝殻に住むようになったり、他の生物と共生する進化により生き長らえている生物もいます。私としては、テクノロジーにより人間の能力が向上、補完されていると考えています。
 
一番分かりやすい例は「Word lends」というアプリです。これは画面を通してみると他の国の言葉が翻訳されて表示される、というものです。分類で言えばARです。翻訳こんにゃくというドラえもんの道具がありましたが、その路線です。イメージとしては、自分の目が進化して、他の国の言葉が変換されて見えるということです。
 
意識せずに自然に身の回りのテクノロジーを使いこなしてより高いパフォーマンスを発揮することが人間の次の進化ではないかと感じているわけです。その頃には「アプリ」では無いかもしれませんが、今はアプリが近いのではないでしょうか。
 
自然に身の回りのテクノロジーを使いこなすためには、深くコミットして、自分とは切り離せなくなった自分が本来から持っているものではないもの、それも自分の一部と感じるようになることが必要です。これは不可能な話ではありません。例えば職人の方が、長年使用した道具を体の一部のように扱い、まるで体の一部のような発言をすることはご覧になったことがある人が多いと思います。そのような熟達を「身体感覚を帯びる」と言うことができると思います。
 
この実現には、使う側の修練と道具の高い品質が求められます。そのハードルをどのように乗り越えていくかが課題なのだと思います。
 

今日の教訓

アプリなどの身の回りのテクノロジーを使いこなすことは、人間の進化ということができて、そのためにはアプリが身体感覚を帯びることが必要

メールの末尾に「以上」とついているとイラッとする

ないですかね?

私は結構思ってしまいます。 (敬語的に正しいかは確認しておらず、完全に私的な心象です) なぜイラッとするのかを考えてみました。

 

1:偉そうに見える

「以上」というせりふは、上司が部下にしゃべる時に使うイメージがある。「以上です」「以上となります」はまだ許せる方だが、やはり必要な言葉だとは思えない。

 

2:他の含みがあるように見える

「以上、丁寧に書いてやったから確認しろ」とか「俺からは以上だ」のような含意があるように見える。「以上の内容でお願いします」という意味であれば、そう書けば良いと思う。 ルールであれば仕方がないが「以上」にメール上で効果は無いように見える。

 

3:書かなくても見れば本文が以上なのはわかる

末尾には定型の締め(よろしくお願いします、のようなもの)や、署名があったりするのだから、どこまでが記載内容かは、わざわざ書かなくてもわかる

 

4:吐き捨てたせりふに見える

「以上」という響きからそう感じる。流れをぶった切る感じたからかもしれない。

 

5:「以上」と言っている自分に酔っているように見える

「以上」はびしっと決まるので、書いている本人は気持ちいいかも知れませんが、ただそのためだけに書いていませんか?

 

6:簡潔に締めたように見えるが、その言葉自体が無駄

その「以上」、無くてもよいですよね?簡潔にまとめたいならそれも無くせば良いのでは?

 

7:対話を続ける姿勢が感じられない

「以上」って、それで終わりという感じがしますよね? 本当に終わりならいいですが、たいていメールって続きますよね?

 

8:内容によっては余計な言葉に聞こえる

まぁ、だいたいが余計な感じがします。試しに抜いて送ってみてください。

 

9:不機嫌なメールに見える

いい気分で「以上」と言う人っていないと思う。唯一厚切りジェイソンさんくらいですが、自分の持ち場が終わったことを伝えるために使っているので意味がある言葉だと思う。

 

10:「以上」がどこまでを指すか明確でない

本文全体ですか?それとも直前の段落ですか?このような確認が必要な言葉は使うべきではないのでは?

 

11:部分的に指し示す場合、使っても良いと思う

明確に箇所を指し示すのであれば良いと思う。ただ、明確に指し示すのであれば、箇条書きにして番号を振るとか、より明確でわかりやすい方法はないだろうか?

 

12:命令のように聞こえる

「以上のことを厳守して…」というセリフは映画などでもありがち。この手のセリフのイメージから、命令の雰囲気が醸し出されている。

 

13:読み仮名が気に入らない

「以上」は「異常」と同じ読みなので、良いイメージは持てない。

 

14:公式文書ぶっている

私的な内容だし、一方的な通知ではなくコミュニケーションだ。公式ばる意味がわからない。

 

15:何を伝えたいのかわからない

 

まとめると、意味の無い言葉に見えて無駄であり、何を伝えたいのか明確でないというところでしょうか。 加えてちょっと偉そうな感じがするのも、マイナスに働いているということです。

 

今日の教訓

手段(使う言葉など)は、利用する意味を考え、目的と合致しているか確認して使用する。惰性で考えなしでは使用しない。

日常系アニメは、それを生きられなかった人たちへの追悼

と書くと、語弊があるし反感も買いそうですが、わかりやすいのでこのままでいきたいと思います。
 
日常系の、何がおもしろいのかわからないアニメって、何がおもしろいのかわからないけど、見ていて飽きなかったりつい見てしまったりすることや、好きな人っていますよね。私も割りと好きで、見ています。
 
で、それをなぜおろしろいと思うのか、と考えていたことが発端です。
 
これだけを考えていても全然答えが出なかったのですが、ある時、内田樹先生の「ひとりでは生きられないのも芸のうち」という本を読んでいて、「死をめぐる二つの考察」の章にこのような一文がありました。
 
 
能のこの構成はおそらく喪の儀礼の古代的形態を正しく伝えている。
そこには二人の登場人物が出てくる。
「痕跡」(症状)を見て、そこでかつて起きたこと(トラウマ的経験)をもう一度物語的に再演することを要請する生者。
その要請に応えて、その物語をもう一度生きる「死者」。
この物語は「演じるもの」と「見るもの」がそのようなトラウマ的事実があったということに合意署名することで完了する。
時間を遡行できない以上、その物語が事実であったかどうかを検証する審級は存在しない。
ということは、その物語は事実であっても嘘であっても、コンテンツは「どうでもいい」ということである。
手続きだけが重要なのだ。
それが「儀礼」ということである。
 
※「ひとりでは生きられないのも芸のうち」は以下で購入できます。
ひとりでは生きられないのも芸のうち (文春文庫)

ひとりでは生きられないのも芸のうち (文春文庫)

 

 

この「トラウマ」というところを、青春(どんな青春かは各人のご希望に沿って)に悔いがある、と読むと、まさに説明された能と同じ構造が見えてきます。
 
再演することを要請する生者=我々
その物語をもう一度生きる死者=日常系アニメ
 
と捉えると、ピタッと当てはまります。
トラウマ的経験をアニメが代行して演じること、そして我々がそれを見ることで「症状の緩解」を行っているという捉え方です。
そうすると、なぜおもしろいと感じるのかという問いに応えられます。
 
つまり、日常系アニメを見ることでまさに癒されているのです。
アニメを見て「癒されるわー」とつぶやくのは本心だったのだ!とひとりごちたのです。
 
トラウマ的経験をまるっとそのまま再現していないところに若干の考察の余地はありそうですが、これが私の中で一番納得できる説明です。もしかすると、日常系アニメはいくつかの形に類型できて、それが各人の経験パターンに合致するのかもしれません。
 
 
今回思ったこととしては、感じ方を探っていくとそれなりに理由が見つかるということです。特にその根が深いほど人類学的に歴史の古い儀礼であったり、伝承などの根元的な部分に行き当たるのではないでしょうか。なんとなく答えがそこにあるような気がします。
 
 

今日の教訓

日常系アニメを見るとこで、我々は文字通り癒されている。
人の感じ方や行動の理由は、人類学的に歴史の古い儀礼であったり、伝承などの根元的な部分に行き当たる。

アイデアの落とし穴と飛び越え方

会社のプランニングを行ってきて感じたこと。
 
イデアって直感であったり感性で、ひらめき的な部分があるように思われがちですが、論理的で整合性があるものでないと「うまくいくアイデアで無くなる」と感じています。
もう少し説明を加えると「論理的に舵取りをしないとアイデアは使い物にならない」ということです。ひらめきは甘美なものなので、その快感に後押しされて猪突猛進に進めても、論理や裏付けでハンドリングしないと(少なくとも共感を得られない他人にとっては)無意味なアート作品になってしまいます。
 
例えば、ある化粧品の新商品企画を考えていたとして、最近見た映画「もののけ姫」でサンがアシタカと初対面するシーンの、あの山犬の母の傷口から血を吸い出して、その血が顔についている美しさが脳裏に残っていて「あっ、血は美しいよね」
と、血をコンセプトに化粧品を考えたとしても、それだけで良い商品、売れる商品に結びつけるのは難しいし、博打になるのだろうなと思います。
 
ブラッディルージュという血のように赤い口紅(実際にあるのか知らないのですが…)やブラッディラインという赤のアイライナー(これもあるかは知りません)は、コンセプトから思い付きますが、赤い化粧が流行っているという裏付けであったり、赤をつけたいという隠れた欲求がなければ、製品化すら難しいことだと思います。
 
最初の鮮烈なイメージを引きずっていても、良いものを作るということには少しもプラスにならない、ということです。
 
 
最初にイメージしたものは根が深いため、一歩引いてみたり切り替えたりすることが難しいです。私もできず、失敗することが多いです。
その時におすすめしたいのが「(できればそのアイデアを利用する)人に話してみる」です。人に話すと、その人の客観的な視点で意見をいただくことができ、かつ話すことで自分の中でも整理されます。その経緯を経ることでアイデアはより深いものになります。
 
ただ、気を付けなければいけないことがあります。次の二点です。
 
・いただいた意見は素直に受けとる
・揚げ足やあら探しばかりする人には相談しない
 
一点目は、わざわざ相談していただいた意見なのだから、それは素直に受けとりましょう。アイデアの欠点を指摘されたとして、相手の理解が低いと憤ってはいけません。アイデアの質が低いか、自分の伝える能力が低いと思いましょう。目の前のひとりにわかってもらえなければ、ましてその他の大勢の他人に伝えることはできません。逆に言えば、目の前の人に伝わる努力をすることでよりわかりやすい、伝わりやすいアイデアになります。
 
二点目は、言ってしまえば「相談するセンス」だと思います。アイデアの種を完膚なきまでに叩きのめす人に相談しても、アイデアが芽を出すことはないし、時間の無駄だということがわかってきました。相談ではなく議論、批判をしてしまう人ですね。前向きな意見を言わない人や、関係がよくない人からもよいフィードバックを受けとる可能性は少ないと思います。またタイミングも重要で、忙しいときに相談しても、短時間でぱっと伝わるアイデアでなければ「つまらないね。時間がないからまた今度」となってしまいがちです。自分のアイデアをどう育てていくかを意識して相談することはまさにセンスだと思います。
 
イデアについては論理的に舵取りをすること、また思い付いたら他の人に相談してみることをお伝えしてきました。
これはいわゆる「テクニック」的な側面がありますが、なにより一番大事なのは結局「アイデアへの情熱」だと思います。情熱が強ければどんな障害も越えていけます。その事例は過去、さまざまな成功談で明らかになっています。自分の感性、内なる声に耳を傾けて行動することも大事だということがわかります。
 
この「論理と感性」を両輪で回すことで成功の道を開いていけるのでしょう。
 
 
この本に書いてある「アイデアのつくり方」がとてもためになります。一朝一夕でひらめこうとしても無理、ということです。
アイデアのつくり方

アイデアのつくり方

 

 

今日の教訓

イデアは論理的に舵取りをして、それが難しい場合は誰か頼れる人に相談してみることがよい。
そのアイデアは情熱が持てるものか、自分の内なる声に耳を傾けることも重要。
 

無理しないダイエット理論

全く無理しないで体重を減らすことに成功しました。3ヶ月で5kgです。
その方法とは簡単で「お酒の量を減らした」です。具体的には毎日飲んでいたものを平日だけにしました。
 
この方法が効いている理由として考えられるのは、
 
・お酒自体のカロリーが減った
・お酒とともに食べる食事の量が減った
・毎日飲んで、疲れていた肝臓が元気になった
・お酒を飲まないで寝るため、睡眠の質がよくなった
・ダイエットを意識したため、自然と運動や食事量が減っていた
 
です。
 
 
これまで試したダイエット方法の中で、一番効果があって驚いています。
 
運動、断食、糖質制限、ロングブレス、食べる順番、痩せるお茶、アブトロニック…さまざまなものを試して一番の効果です。
それぞれの対応はなかなか「習慣」になりにくいことが問題であるように思います。時間が必要であったり、特別な調整が必要であったり…
運動や食べる順番は今もちょっとやっているのでその相乗効果もあって効いているのかもです。
 
 
これで感じたことは、ダイエットを成功させるには自分の中で一番太るポイントがあって、それを押さえることでストレスが少なく達成できるように思いました。それが、私はたまたまお酒でありました。
 
実際平日のお酒をやめてみて、必ずしも必要ではないな、と感じてみます。惰性で飲んでいたということもあるのでしょう。
妻が子を産んで、ちょうどお酒の相手がいなくなったということもあり、ちょうど転機で抵抗なく続いています。
 
こういった転機に惰性で行っていることをやめてみると、意外と不要なものだったりして棚卸しになってよい傾向だと思います。
風が通らなかった場所に新しい風を通すとか、水がたまって澱んでいたところを水で流すといった感覚です。これまでと同じであれば、どうしても澱んでくるし、たまには違うことをしてみるというのも新鮮でよいものです。
 
 

今日の教訓

日常のことをたまに振り返って、本当に必要かを確認することが大切。惰性でやっていることは一度やめてみると本当に必要か確認できる

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