今日の教訓

今日得た教訓をひとつずつ


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コミュニケーションの老化

話していて、同じ日本語で難しい単語や内容でないのに言っていることがわからない方っていないでしょうか。言いたいことの意図が汲み取ることが難しく、いくつかこちらから質問を投げ掛けてようやく会話が成立するような方です。
 
これについて理由を考えてみました。
 
振り返ってみると、特に高齢者(といっても、体感的には40歳くらいから)、特に独身の方が
多い印象です。独身でも趣味が充実していたりしてたくさんの方と会うことをしている方は、この傾向が無いように思います。
 
これを踏まえると、原因は「会話のフィールドと相手が限定的」という仮説が立ちます。
独身で、職場と家とを往復するような生活の場合、会話をする相手が仕事上の関係のみに限られてしまいます。そうすると、会話のフィールドは仕事に限定され、相手も限られることとなります。これがよくないのではないでしょうか。
つまり、会話のフィールドの種類が少なく、また相手も限られる場合、そのフィールドや相手にしか通じない会話の「方言」のようなものが育まれてしまい、特定のフィールドや相手以外には通じにくくなってしまうということです。
加えて、家庭内での会話が無い場合、その日に起こったことなどを自身だけで咀嚼することとなり、見方の偏見がより強固に凝り固まり、独自の文化ともいえる会話の土壌が育まれてしまうのではないでしょうか。
 
このように考えると腑に落ちます。
 
 
結婚している場合、「仕事」「家庭」と少なくとも2つのフィールドがあります。相手は限られますが、フィールドにより会話を使い分ける必要があります。また仕事上できない会話も家庭内ではできたりします。これが既婚者ではこの事象が発生しにくいということも自然な道理かと思います。
 
 
 
コミュニケーションが限定された相手、フィールドでしか効果を発揮できなくなり、会話の柔軟性を失っていくこと、これを「コミュニケーションの老化」と呼べるのではないでしょうか。
 
対応は……難しいですね。その方に「おっしゃっていることが理解しづらい」と伝えるしか無いように思います。
 
自身がそうならないようにするためには、これは文章にするのは簡単で、日常的にたくさんの相手、フィールドで会話をすればよいように思います(仮説が合っていればですが)
 
いずれにしても、どこかで会話がうまくいっていないか、自分の言っていることが相手に伝わっていないかといった自己点検は、定期的に必要なのかと思います。
 
ただし厄介なことは「コミュニケーションに必要な能力自体が下がっているわけではない」ということです。実際は意思疏通ができていないので、コミュニケーション能力は下がっているのですが、語彙が少なかったり、単語の意味を間違えていたり、文法がおかしかったりといったことはなく、むしろ文章能力(と言ってよいかわからないのですが)は高かったりするので、ちゃんと意思疏通できているかの観点が必要かと思います。
 
 

今日の教訓

たくさんの種類のフィールド、相手と話すことがコミュニケーションの老化を防ぐことができる(仮設)
 
意思疏通がちゃんとできているかの観点で自己点検することがなにより大事。

脇目もふらず、馬車馬のように働き続ける人生は、リスクが大きすぎる

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何かで見かけたこの言葉。刺さりました。
まるで最近感じていることを代弁してくれているようです。
 
がーっと働くことは悪いことではないし、人生のどこかでやった方が糧になると思います。
しかし、ずーーーっと「とにかく仕事をこなせば良い」のモードでは、はしごを外されたときや時代が大きく変わったときにどうにもならなくなってしまいます。
 
ロッククライマーが断崖絶壁を登るとき、命綱となるアンカーを付け替えながら登っていきます。人生でもそんな感じで、落ちても大丈夫なアンカーをどこかで探して付ける必要がある、ということです。人生も点検が必要なのですね。最後のアンカーは国の「セーフティネット」です。
 

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私もそろそろアンカーを付け替えなきゃいけない時期なのです。30歳を過ぎて、仕事はもうこなせるようになったし、結婚も子供もできて仕事一筋というよりは家庭も大事にしたい気持ちも芽生えてきて、もう20代のように突っ走るだけの生活は合わなくなってきています。
 
具体的には転職、副業、引っ越し、保険の加入などがアクションになると思います。
「こうすれば絶対安全!」はないですが、アクションしないことが最もリスクのある時代のため、いろいろな変化を起こしていく必要があります。
 
 
また、ある時に立ち止まることは、自分の仕事を客観的に見ることになります。そうすることで、どのような価値を生み出しているのか、社会にどのような貢献ができているのか、満足行く仕事と生活なのかをあらためて考える機会になります。ずっと仕事ばかりしてきた方は、一度これまでの仕事を振り返ってみるのもよいと思います。
 
私は転職を目指していますが、たとえ転職しなくても転職しようと行動していることにより、今の仕事を客観的に見ることができて、今の仕事自体の向上につながっています。また「自分の市場価値」のようなものがわかるので、現職の給与や待遇の交渉に利用できます。
気をつけなければいけないのは、転職を行うときにエージェントを通すことが多いですが、エージェントは「持ち上げ」が上手なので、調子に乗っては行けません。エージェントは転職が決まったら成果報酬をもらえる立場なので、悪質なエージェントの場合はこちらの利益になるかどうかを度外視で持ち上げて転職を勧めます。持ち上げられて気分はいいですが、本当に自分のためになるかは冷静に見極めて判断が必要と思います。
 
以下は私が転職で参考にした本です。頭に転職がよぎっても「本当に転職すべきか」を考えさせてくれる本で、とても参考になりました。
転職の赤本

転職の赤本

 

 

今日の教訓

がむしゃらに働くことは大事。ですが、立ち止まって自分の仕事を振り返り、客観的に見つめ直すことが、時には必要。

無茶ぶりへの対応方法

無茶ぶりって結構多くあり、特に仕事をしているとよく遭遇しますよね。ある目標を達成するためにどうしても必要な無茶なお願いであったり、またはその場の笑いをとるための手段であったりします。が、個人的にはあまり好きにはなれず、また無茶ぶりをしない人に対して無茶ぶりが来がちであることは、世の中のパワーバランスを見ているようであまり良い気持ちはしません。
 
そんな無茶ぶりを振られがちな私としては、対処としてうまくいったこと、いかなかったことがさまざまです。
 
いくつかの対処法を経験を踏まえてご紹介します。
 
 
・「いやいや、勘弁してくださいよー」的にノリながらも柔和に断る
 
これは表面的には相手を受け入れつつ、自分も無茶なことは行わないことで円満に解決できます。「逆にどうです?」「○○さんならできますよ!」と別の人を巻き込むことも可能なため、なかなか強いフレーズです。ただし、手練れであれは「じゃあこれならどう?」とレベルを下げて振ってくるため、結局そこで話術バトルになりがちです。
 
和やかに済ませられる可能性は高いですが、面倒でもあります。
 
 
・「は?何言っちゃってんの?」的に強硬に断る
 
これは結構しらけますし、理由を求められます、ですので、やる場合は確固たる信念を持って対処が必要です。その後の空気はあなた次第になりますので、場の主導権は握れます。話術次第ではそこから盛り上げていくことも可能ですが、かなり頑張る必要があります。
この対処をした時に「しらけるわー」と言ってくる人がいたら、気にしないでください。しらけたのは無茶ぶりをしたその人のせいであって、いつも盛り上がっていたのはあなたが無茶ぶりをうまく対処していたからです。ふたりで協力しておもしろかったことを忘れてはいけません。無茶ぶりしている自分がおもしろいと勘違いしている人に対しては、たまにはこういった対応をして、お灸を据えるのもよいかと思います。
また、絶対にアルコールの一気飲みなど生命に関わる無茶ぶりには断固として断る姿勢が必要です。
 
 
・無茶ぶりに普通に対処する
 
これは、一番やってはいけないもののように思います。無茶してやったことが当たり前のことのように見え、あなたが無理してやっていることが相手にとっては普通になります。そのギャップから悲劇が生まれます。振った側としても、多少苦しむ姿を期待しているため期待を裏切ってしまい残念な感じです。やはり無茶なのでポーズだけでも「あー辛いっすー」という姿が求められます。やはり、無茶ぶりってめんどくさいっすね。
 
 
・無茶ぶりから一歩進んだ内容で実行する
 
個人的なベストアンサーはこれです。
ただやるのではなく、付加価値を付けるということです。ただ言われるだけをするのではありません。もう一歩進んだ内容を贈るのです。その一歩前に出る姿勢が感動を生みます。ただ者ではないと一目おかれるかもしれませんし、無茶ぶりが無くなることもあります。
やはり何事もチャンスなのですね。そのチャンスを活かしてより高い仕事を行うことで、次につながっていくと思います。
 
 

今日の教訓

無茶ぶりに対しては一歩前に出る。付加価値を付けて贈る。流されてそのまま行うことが一番まずい。

駅から少し離れることがもたらすメリット

引っ越しをして、これまで徒歩5分だったのが徒歩15分になりました。朝起きるのは少し早める必要がありますが、それによりメリットがありました。駅近がよいとされている中で意外な発見だったのでご紹介します。
 
 
メリット1:賑やかすぎず落ち着く
 
一番はやはりこれです。
駅に近いと、それだけ人も多くなり騒がしくなります。飲食店も多いので酔っぱらいがいて、治安も気になります。
 
駅から離れるとそれだけ人が減るので、静かで落ち着いた環境になりました。外の音が聞こえていると、まだなんとなく屋外にいる感じがして気が休まらなかったりしますよね。
 
 
メリット2:運動不足を解消、体重減少
 
駅までは歩いたり自転車に乗ったりします。時には走ったりもするのが良いのかもしれませんが、運動不足と感じることは少なくなったように思います。また多少の体重減少も見られ、健康に良い影響があるように感じます。
 
 
メリット3:家賃が安めになる
 
これは説明不要ですね。駅から遠くなると相対的に家賃が下がります。少しばかり離れるのが苦ではない方は、ぜひおすすめします。
 
 
メリット4:子育てしやすい
 
メリット1にも関係しますが、やはり治安などが落ち着いていて、子育てには向いていると思います。駅の近くにはいかがわしいお店や、そこまでいかなくても誉められないお店があることも多いため、触れる機会が減ることも良いことと思います。
自然が多くなることも付け加えておきます。
 
 
メリット5:行動範囲が増える
 
駅から家まではほぼ毎日通るため、そこは自分の庭な感じがします。少なくとも毎日の変化を感じとることができ、道中の寄り道や今まで行かなかった場所にも行くようになります。
私は大型スーパーが近くなったことで利用回数が引っ越し前より増えました。また、行き方も電車から自転車に変わり、手軽に出掛けるようになりました。大型スーパーの方が駅前のスーパーより安く、家計も助かっています。
 
 
メリット6:大型店舗が近くなる
 
メリット5にも関係しますが、駅の近くはまとまった土地が確保しづらいため、大型の店舗が少ない傾向です。少し離れると大型のスーパーやホームセンターなどがあり。生活を支えてくれます。
ただ、場所を間違えると工場など生活にプラスにならない地域になってしまうため、場所は下調べが必要と思います。
 
 
メリット7:移動時間に思考が整理される
 
特に歩いた場合にそうなのですが、家から駅の間にいろいろな考えが浮かんでは消えます。それを繰り返すと思考がクリアになっていきます。おそらく「歩き瞑想」と同じようなことかと思います。
 
歩き瞑想については以下です。
 
 
 
以上7点のメリットを挙げました。
 
逆にデメリットといえば、駅に行きづらくなることですが、徒歩15分程度であれば徒歩圏内に入りますのでそれほど気になりません。車が必要になる距離でもないため、出掛けることには困りません。
 
ただ、人を招きづらいというのは、確かにあります。歩いてきてね、とは言いづらくバスや車(タクシー)を勧めます。そこを車で迎えにいけると来る方は楽になると思います。
 
 
当たり前とされていることに疑問を投げ掛けてみるのは大事かと思います。
 
 

今日の教訓

駅から近い方がよいとされていますが、少し離れることにはメリットもあります。当たり前とされていることに疑問を投げ掛けてみるのは大事。

時給論とコスパ

一時間で百円安いものを見つけて得を得ようとするのは時給に換算してコスパが悪い、という話があります。
 
これにどうも納得しかねます。
というか、ちょっと視点が違うなぁと。
 
一時間で百円安いものを見つけて得を得ることは、仕事で考えれば時給百円です。これは確かにコスパが悪い。
 
ただし仕事と考えればの話です。
仕事ではなく、余暇でこれを行った場合、得る予定でなかった百円がプラスになります。これは明らかにメリットなように思います。
まずこれがひとつです。
 
もちろん、これに対する反論はわかります。
一時間で百円でなく、もっと高値のパフォーマンスをしろよ、ということです。たかが百円じゃあね、という感じです。
 
 
さて、前者の意見、後者の意見がありますが、どちらも時給論をベースに語っている点で同じ穴の狢です。同じ次元で議論している以上、同じレベルです。もっと別の視点があるように思います。
 
「一時間で百円安いものを見つけた」ということにより、以下のようなことだってあり得ると思います。
 
・少しでも安いものを見つけて買うことに快感を覚えるため、その行為事態が楽しい
 
・百円安いものを見つけるために学んだ方法が、別の仕事の糧になる
 
・安く買う方法を公開して、その情報料を売る
 
といったように、直接お金の価値に直結するのではなく、それにより直接お金の価値がつけられない価値を得ることもあると思います。
それがふたつめです。その行動を通じて、唯一無二の親友を作ることができることもあります。
 
お金ですぐに換算できない価値は、その時点で価値がわからないので判断できないものと思います。種を植えるイメージですね。どれだけの品質のものがどのくらい出てくるかわからない。
 
だから、その時のベストパフォーマンスを尽くすことが大事と思っています。ベストを尽くせば、きっとお金ではすぐには換算できない価値を得ることがきっとできます。
 
ベストを尽くすことで、少なくとも「今の自分」を越えることができます。それはすぐにはお金に換算できない価値です。少しずつでも自己ベストを塗り替えて行く人は、今問題があってもいずれ乗り越えて行く可能性があります。また、右肩上がりというのもひとつの価値となり、あなたの支えとなります。
 
 

今日の教訓

表面的なコスパを計ることで、そのことの価値を単純には計れない。お金ですぐに換算できない価値につながる可能性もあり、ベストを尽くすことが大事。 

奉仕とエゴと

もうすぐ二歳になる娘がいます。
 
うちの子もすぐに大きくなって、一人でいろいろできるようになって、今はまだまだサポートしないとできないことが多いですが、そのうち手助けしなくてもできることが増えてくるのだろう、と思っています。
 
そんな中で、親としていろいろとやってあげるのが務めと思うのですが、一方でやりすぎてもダメだと思っている自分がいます。
それは結局、自分のエゴを満たすために子供を利用している、という疑念があるためです。
 
答えは(なんとなくですが)頭ではわかっています。
自立を妨げるようであれば、手助けすべきでなくエゴであって、そうでなければ積極的に手助けすべきだと思います。でも、この線引きはどのように判断すればよろしいのでしょうか。
 
具体的に考えていくとここで手詰まりとなってしまいます。
 
具体的に進めてダメなときは、抽象的に考えてみます。つまり、掘り下げてダメなら考える次元を上げてみることです。
 
 
奉仕なのかエゴなのか悩みがあり、その線引きで悩んでいたのでした。
考えをより俯瞰して見てみると、次の疑問が浮かびます。
 
1:線引きを明確に決める必要はあるのでしょうか。
2:奉仕かエゴか悩むことは悪いことでしょうか。
3:そもそも奉仕かエゴかは分けられるものなのでしょうか。
 
1は、発端としては奉仕することを自分のエゴを満たすために行っているのでは?という疑念からスタートしているため「明確に決めたい」となります。
 
2は、それ自体を悩むことは悪いことのようには思えません。むしろ、何も考えずにいるより有益なように思います。
 
3は、少し難しいので整理して考えてみます。それぞれ、どのような基準で奉仕やエゴと分類できるのでしょうか。
 
と、ここまで読んでお気づきだと思います。
奉仕とエゴは完全に分けられるものではありません。奉仕は客観的に「誰かのために何かをする」ことで、エゴは主観的に「自分の欲望を満たすこと」のため、重なりあうことは十分考えられます。
 
つまり、最初の問が間違っていたということになります。
 
奉仕とエゴは単純に切り離せるものではないため「エゴを満たすための行動ではないか内省して、戒めながら奉仕する」ということが正解なように思います。
 
このためには心の声に耳を傾けるしかありません。
自分がすべきことをしているときは、誰かに教えられなくても自然とそうわかる、と考えています。
 
自分に必要なことだと衝撃が走って始めた習い事とか、それをしていると完全に穏やかなひとときが流れる、といった経験はないでしょうか。欲望からの行動ではなく、それを行うことが正しいように思うために行う行動です。
 
子供は欲求ベースで行動しますが、大人は正しいと思うことをする、ということが大きな違いだと思います。
 

今日の教訓

心の声に耳を傾け、行うべきことをしてエゴに走らないよう内省を継続することが大事

○○っぽさを感じることの大切さ

見た目の最初の印象で「○○っぽいよね」と感じることは大事だと思います。
 
 
例えば、こんなことがありました。
 
最近、我が家は引っ越しを考えていて、それに合わせて照明を変えようと検討していました。
あれこれ見た結果、気に入ったものがあったのですが、よく考えるとそれはよく行くスーパーマーケットのレジ上にある照明と激似でした。
 
それを知った瞬間「うわー、やめよう」という気持ちでいっぱいになってしまいました。
それまで気に入っていたのにも関わらず、またその商品の機能に致命的な欠陥があることが発覚したわけでもないのにです。
 
いや、自分の意に反するものに似ているということは、致命的な欠陥なのかもしれません。
 
 
気づかずに購入して、あとから似ていることに気づいた場合、何ともいたたまれない気持ちになるでしょうし、他の人が先に気づいて指摘された場合も、複雑な心境でしょう(笑い話になればよいですが)
 
いずれにしても、自分の中のストックを増やして、それと照らし合わせて判断するということが大切なように思います。
 
それにより、買い物の精度も高まることが期待できそうです。
自分が買って満足したものと照らし合わせて「満足したものっぽさ」をかぎ分けることでより満足度の高い購入ができる、ということです。
 
 
ちょっと前に話題になった東京オリンピックのエンブレム問題も、関係することと思います。
あのエンブレムを見て「日本っぽくないなぁ」とか「なにか違うなぁ」と感じた人は少なくないと思います。
 
実際、次のようなページもありました。
 
その「っぽくなさ」がどこかの既存のマークに似ていた、というところに起因したものである、というのはいきすぎた推論でしょうか。
 
個人的には、人間にはそのくらいの能力があるものだと思っています。ましてデザイナーとは、イメージを具象するプロですので、その能力には長けていて不思議ではありません。
 
受け売りとなるのですが、内田樹先生(勝手に先生と呼んでしまいます、すみません)のブログで「ブリコルール」についての話があります。
ブリコルールとは、ありあわせの材料で必要なものを作ることです。
 
少し内容を引用させていただきます。
 
ジャングルを歩いていると目の前にさまざまな「モノ」が出現してくる。植物であったり、動物であったり、無機物であったり、有機物であったり、人工のモノであったり、自然物であったり。その中のあるものを前にしたときにブリコルールは立ち止まる。そして、「こんなものでも何かの役に立つかもしれない」と言って、ほいと合切袋に放り込む。
なぜ、それがわかるのか。
ジャングルの中には「とりあえずその用途や実用性がわからないもの」がそれこそ無数にあったはずである。
どうして「今はその用途や意義が知れぬ」無数のオブジェの中から、とりわけ「それ」が彼の関心を惹きつけたのか。
私は彼がそうやって拾い上げた「モノ」はそれからあとのある時点で、必ず彼にとって死活的に重要な役割を果たし、「ああ、これをあのとき拾っておいてよかった」と嘆息をつく、という場面があったのだろうと思う。
 
 
この話と、今回の〇〇っぽさの話は、そう離れていないんじゃないかと思っています。
 
「必要かどうか」がわかる、ということが使えるっぽいという嗅ぎ分けなのかと思います。内田先生は先駆的な知と呼んでいて、これは「知らないけど、わかる」ということです。
ものを買うときも「これなら後悔しないっぽい」と感じとることです。良くなさそうなものを安いという理由で買って、本当に良くなかった経験はないでしょうか。
 
つまり人間の能力として「見たものの内在する価値を判断できる」ということがあると言えそうです。個人的な感覚では、よくないものの場合アラートが鳴る感じがします。「これはダメなものだー」と。
 
この精度を上げるには、自分で選択してよかった、よくなかった経験を蓄積させて、その参照データを増やす他無いように思います。
 
 
 
 内田先生の、この件に近い本は以下で購入できます。
邪悪なものの鎮め方 (文春文庫)

邪悪なものの鎮め方 (文春文庫)

 

  

今日の教訓

〇〇っぽいと感じることは大切で、その精度を上げるために自分の中のストックを日々上げていくことが大事

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